かめ壺焼酎蔵「明るい農村」

「日本一礼儀正しい蔵」
霧島神宮 門前蔵かめ壺焼酎明るい農村

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焼酎の歴史~蒸留編~

こんにちは(^^)/霧島町蒸留所の阿部です。

今回も、前回に引き続き焼酎の歴史について、お伝えします。

前回は「焼酎の歴史~伝来編~」でしたが、今回は「焼酎の歴史~蒸留編~」。「蒸留」という面から、焼酎がどんな進化をしてきたのかを探ってみたいと思います。

阿刺吉(あらき)酒

話はさかのぼり、江戸時代。
当時、焼酎は、「阿刺吉(あらき)酒」という別名がありました。

阿刺吉・・・。
何のことだかさっぱりわかりませんが、いわゆる当て字ですね。あらき、とは東南アジアなどで飲まれていた蒸留酒である「アラック」がなまったものと言われています。

「アラック」の語源は「アランビック」という外国製の蒸留器から来ています。

さらに「アランビック」はアラビア語で汗を意味する「arrak」が語源であり、蒸留によって、蒸発した蒸気が冷やされ、露となっている様子が、汗をかいているように見える、まさに蒸留酒を表す言葉が語源となっているのです。

阿刺吉酒は、もともと胃や腸に効く薬酒として扱われることもあったそうです。

その後、だんだんと同じ蒸留酒である「焼酎」と同義語として扱われるようになり、いつしか「焼酎」が主に使われるようになりました。

蒸留器と蒸留機

さて、そんな焼酎の製法を代表する部分と言えば「蒸留」ではないでしょうか。蒸留は『蒸留器』を使って行われるのですが、この『蒸留器』に関して、以前から個人的に疑問であったことがあります。

蒸留器は『蒸留機』や『蒸留器』などと書かれていることがあり、「き」の部分は「機」と「器」どちらが正しいのだろう?という疑問です。

結果として、真相は調査の結果わからずじまいなのですが…、個人的見解としては昔は『蒸留器』で造っていたけれど、今は『蒸留機』で造っている。というものです。

『蒸留器』が表すものは、『器』が意味する通り、蒸留をするための「うつわ」。
昔、焼酎を造る際に用いられた蒸留の道具「欄引(らんびき)」を意味しているのではないか。

ランビキと焜炉(大分県中津市村上医家史料館蔵)

欄引とは、下から温めて蒸発した気体が、冷水を貯めている上部で冷やされ、露となった液体が外側に飛び出した口ばしのような部分を伝って、外へぽたぽたと排出される仕組みです。

陶製のものが多かったとされており、これはまさしく蒸留をする「器(うつわ)」ですね。

対して『蒸留機』は、現在の焼酎造りに用いられている蒸留するための機械。

これはまさしく「機械」。

ということで、『蒸留器』と『蒸留機』の違いは、そのまま焼酎の製法である蒸留の変遷を表しているのではないかな、と思っています。(あくまで個人的見解ですが…)

ちなみに一般的には『蒸留器』という表記がよく使われています。(しかし、酒税法での表記は『蒸留機』です)

蒸留器の進化

蒸留器は、これ以外にも多用な進化の経緯が残っています。

日本全土で広く使われていたという「カブト釜式蒸留器」(仕組みは欄引と同様)や、鹿児島と鹿児島以南の諸島でしか使われていなかったとされる「ツブロ式蒸留器」などがあります。

これらは古式蒸留器とも呼ばれ、現代の蒸留機とは異なり直火式でした。
直火式の欠点は、火力調整が難しいことで、もろみが焦げてしまうことが少なくありませんでした。

現在は、これを蒸気で加熱することで、もろみに間接的に熱が加わるため、もろみが焦げるのを防ぎやすくなっています。

また、これらの蒸留器と同じく、古くに使われていた蒸留器に「木桶蒸留器」があります。

文字通り、木製の蒸留器で、木の隙間から焼酎が呼吸をするとされており、一層柔らかい味わいに仕上がります。その反面、日々のメンテナンスの大変さや、出来上がる焼酎の収量が少ないことなどから、だんだんとその数は少なくなっていきます。

江戸時代から明治時代初期頃まで使われていた、これらの蒸留器は効率化を求める過程で技術が進化していきました。

今まで、ご案内したのは、原料本来の豊かな風味をより楽しめる、一度だけ蒸留する「単式蒸留機」の話です。明るい農村でも、こちらの単式蒸留機を使っています。

一方で、1900年には、原料の風味をあまり残さずに、効率的に高度数のアルコールを作るために、連続式蒸留機も登場しました。

「蒸留」一つとっても、とても長く、たくさんの歴史があります。
そんな歴史を想いながら焼酎を飲むと、一味違って感じるかもしれませんね(^^)

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焼酎の歴史~伝来編

こんにちは(^^)/霧島町蒸留所の阿部です。
今回は知っているとちょっとウンチクを語れる?焼酎の歴史について、まとめてみたいと思います。

ただし、一言に焼酎の歴史と言っても様々な事柄があるので、初回である今回は、「焼酎の歴史~伝来編~」と銘打って、焼酎がどうやって、日本に伝わってきたのか、ということについてご案内します。

伝来のルート

まず、初めに伝えておかなければいけないことは、焼酎は外国から日本へ伝わってきたのですが、その伝来ルートには複数の説があり、どれが正しいかは不明ということです。

ちなみに複数の説には・・・

  1. インドシナ半島(東南アジア)から琉球(現在の沖縄)へ伝わった説。
  2. 中国から朝鮮半島を通って、対馬(長崎県)へ伝わった説。
  3. 中国南部から倭寇(海賊)を通じて日本へ伝わった説。

などがあります。

中でも有力なのは1. と言われていますが、真相はいまだにわかっていません。

焼酎の始まり

最も古い焼酎の記録はというと、1546年、大航海時代のポルトガル探検家が記した記述の中に「米から造るオラーカ(蒸留酒のこと)」が飲まれていたと記されています。

鹿児島なのに米?と思うかもしれませんが、実は鹿児島で造られていた焼酎は、 はじめは「芋」ではなく「米」「粟」「稗(ひえ)」といった穀類が原料であったそうです。

また、「焼酎」という文字が記録された一番古い資料は、鹿児島県の郡山八幡神社に、1559年に残された木札とされ、内容は「座主が大変ケチで、焼酎を一度も振る舞わず、迷惑なことだ」という落書きです。当時の人も、焼酎が大好きだったんですね(*^_^*)

さつまいもの伝来

鹿児島の地に芋焼酎の原料「さつまいも」が伝わったのは、それからしばらく経った1705年のことです。

前田利右エ門という人物が、唐(から:当時の言葉で、外国を意味していました。)から琉球へ伝わった、さつまいもの苗を薩摩へ持ち帰ったことがきっかけで、鹿児島へ「さつまいも」が伝わりました。

ちなみに、鹿児島では、今でも「さつまいも」ではなく、「カライモ」という言葉がよく使われています。

鹿児島は、元々火山の噴火によって、火山灰が蓄積したシラス台地。

このシラス台地の水はけの良さが、稲作には不向きな一方で、さつまいもの栽培に適していたことから鹿児島でさつまいもが急激に普及することとなりました。

これをきっかけとして、江戸時代には、米は年貢の対象として貴重なものとなっていたことからも当時の人たちは、必然的にたくさん収穫できる「さつまいも」で焼酎を造り始めたと考えられています。

様々な偶然と必然が重なって、現代の「焼酎王国」鹿児島が誕生しました。そうした歴史に思いをはせながら飲む焼酎は、一層美味しく感じられるものですよ(*^_^*)

ちなみに、わたしたちの商品で「明るい農村・古代緑米焼酎」というものがあります。 古代米と言われる、希少な米を自社農場で復活させ焼酎にしたもので、わたしたちが造る唯一の米焼酎です。

もしかすると、遥か昔に、鹿児島で飲まれていた米焼酎の、当時の味わいに通ずるものが感じられるかもしれませんね(^^)

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